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何か面白いことないかな

今日の話 京都の医史跡巡り

京都に旅行してきました。紅葉目的の旅行でしたが、紅葉は殆ど終わっていました。

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東福寺




最近、蘭学やら医学史について調べていたので、ついでに京都の医史跡を巡ってきました。


目次

近代医学の場所

京都については詳しくないのですが、京の医史跡を訪ねて|健康のために|広報・読み物|武田病院グループに載せられている場所を訪れました。

日本初の解剖場所

京都市中京区六角通大宮西入の六角獄舎跡です。

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山脇東洋観臓之地碑
「日本近代医学のあけぼの山脇東洋観臓之地」の記念碑です。
碑には以下の文が刻まれています。

日本最初の人体解屍観臓をおこなった江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。この記録は5年後に『蔵志』としてまとめられた。実証的な科学精神を医学にとり入れた初めで、日本の近代医学が芽生えるきっかけとなった。1976年・日本医師会・日本医史学会・日本解剖学会・京都府医師会

日本の解剖学の先駆者 山脇東洋(宝永2年・1706年〜宝暦12年・1762年)

江戸時代のの医学者です。実験医学先駆者の一人です。山脇東洋は死罪となった囚人の解剖が許可され、1754(宝暦4)年、この刑場にて山脇東洋が日本で最初の人体解剖を行いました。

周りから批判されながらも、親子3代に渡って解剖を続けていたようです。


すぐ横の「日本近代医学発祥之碑」です。
土地が狭くて仕方がないのでしょうが、雑な扱いです…!ゴミ収集地の目の前でゴミが大量に...

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日本近代医学発祥之碑

著作「蔵志(ぞうし)」

この地で人体解剖を観察した後、1759(宝暦9)年には以下の解剖学書「蔵志(ぞうし)」を発刊しました。

山脇東洋「蔵志(ぞうし)」
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(画像引用元:蔵志. 乾,坤之巻 / 山脇尚徳 著 ; [山脇]侃 校

この著作に触発され、杉田玄白らが『解体新書』に取り掛かり始めたようです。



小石元俊の 医学塾「究理堂」跡地

京都市中京区釜座通竹屋町下ル に、医学塾「究理堂」跡があります。現在は小石医院となっています。

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「究理堂」跡地、現小石医院

京の蘭学の祖 小石元俊(寛保3・1743年~文化5・1808年)

山脇東洋の孫弟子にあたり、関西における蘭医学の主唱者です。

安永3年(1774年)に江戸で出版された『解体新書』に触発され、同年に杉田玄白大槻玄沢に相次いで知り合うと、江戸に出て東遊し、大槻邸に滞在したそうです。

元俊は東洋の孫弟子として、人体解剖への立ち会いや主導的立場にもあり、医師としての名声は各地に広がっていきました。

そんな安永3(1774)年に、杉田玄白の『解体新書』が発刊され、矢も盾もたまらず江戸に出向き、玄白や前野良沢らに直接会って蘭医学や解剖論を闘わせました。元紹院長は、「元俊は、玄白が京都へ来た時には宿へ出向いて毎日討論、玄白が出かけると出先まで押しかけていったそうです」とのエピソードを披露してくれました。
(引用元:京の医史跡を訪ねて|健康のために|広報・読み物|武田病院グループ

なんだかフットワークが軽そうな印象を受けます。



著作『施薬院解男体臓図』

安永3(1774)年『解体新書』が発刊され、触発されて杉田玄白大槻玄沢らと知り合った後、天明8(1788)年に伏見で解剖に立会い『平治郎臓図』を、寛政8年(1796年)にも人体解剖を行い、『施薬院解男体臓図』を作ったようです。


生首の図等が描かれていますが、刺激が強いので心臓の絵を選びました。詳しくご覧になりたい方は以下のリンクからどうぞ

小石元俊『施薬院解男体臓図』
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(画像引用元:施薬院觧男体臓図 / 環善 解 ; 蘭州 図

賀川玄悦の家宅・墓所(玉樹寺)

下京区松原通南の一貫町に賀川玄悦の家宅、現在は現在は浄土宗玉樹寺になっていて墓所があります。

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賀川玄悦の家宅・墓所(玉樹寺)

近代産科の始祖 賀川玄悦(元禄13年・1700年〜安永6年・1777年

賀川 玄悦(かがわ げんえつ)は江戸時代の医師です。
産科医として多くの臨床体験を積む中で、母子を共に守る目的で出産用の鉗子を発明するなど産科医療の発展に尽くしました。
胎児の正常胎位(胎児が母体中で頭を下にしていること)を世界に先がけて発見したことでも知られています。
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世界に誇る「回生法」発見

「回生法」と呼ばれる術法で、寛延3(1750)年に東洋では初めての発見で、以後、難産の際には器具を使用する手術が不可欠とされ、手術方法や器具も改良が加えられていきました。

同じ時期に、イギリスの産科医ウイリアム・スメリーもこの術法を発見しています。

悪習の廃止を唱える:出産後の妊婦は7日間眠らせない

賀川玄悦は生涯、特定の師を仰がず、自身の体験によって究めた研究結果を明和2(1765)年に『産論』として発表しました。
この中で、胎児の「正常胎位」のほか、古来からの慣習であった出産後7日間、産婦を寝かせないようにするための座椅子「産椅(さんい)」や腹帯の害を訴えつづけ、悪習の廃止を唱えつづけました。

シーボルト賀川流産科術を翻訳

賀川玄悦没後46年の文政6(1823)年に、オランダ商館医師として長崎に来たシーボルトは、賀川流産科術をオランダ語に翻訳した『日本産科問答』を発表しました。これはドイツ語とフランス語にも訳され、玄悦の名は世界で注目を集めました。

著作『子玄子産論』

賀川玄悦の著作『子玄子産論』です。文字ばかりです。

賀川玄悦『子玄子産論』
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(画像引用元:子玄子産論. 巻第1-4 / 賀川玄悦 著 ; [賀川]玄迪,山脇叔光 校

島津製作所 創業記念資料館

国産X線装置発祥の地

国産初期のレントゲン装置(X線撮影機器)が、「島津製作所 創業記念資料館」に残されています。

明治29(1896)年、ヴィルヘルム・レントゲン博士がX線を発見した11カ月後に、二代目島津源蔵が第三高等学校(現・京都大学)との協働で、X線撮影に成功させました。

時間の関係上、寄る事ができませんでした。。


戦国時代の医者

曲直瀬道三の墓所 十念寺

京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町の十念寺に曲直瀬道三の墓所があります。

医学の礎を築いた「医聖」 曲直瀬道三(永正4年・1507年〜文禄3年・1594年)

戦国時代から安土桃山時代の日本の医師です。

22歳で北関東の日本最古の足利学校で医学の道を目指した曲直瀬道三は、38歳で京都に戻り現在の医科大学といえる医学舎「啓廸院(けいてきいん)」を設立し、800人もの医生を世に送り出しました。

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曲直瀬道三の墓所 十念寺
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十念寺の説明
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曲直瀬道三墓所の石碑

曲直瀬道三は患者も凄い!

信長、元就、長慶、義輝、正親町天皇が患者だったようです。


歴史秘話ヒストリア2016年1月13日戦のない世を目指して 戦国スーパードクター・曲直瀬道三  160113

著作『啓廸集』

『啓廸集』は、自らの臨床体験を基に、74部門(内科、外科、婦人科、小児科、薬学など)に上っています。

曲直瀬道三『啓廸集』
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(画像引用元:国立国会図書館デジタルコレクション - 啓迪集 8巻. [4]

地図

京都の街中の地図です。分かりにくいのですが、ピンクの点線で囲っている場所が医学関連の場所です。

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「ENJOY KYOTO」内の地図

比較対象が大分県中津市になってしまうのですが、京都は大都会ですので、移動距離が長く、車で通りづらい場所も多いので巡りにくい印象を受けました。



まとめ

京都には日本近代医学発祥の地や、近代医学に関連するお医者さんの家等がありました。