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何か面白いことないかな

大分県中津市で見つけた歴史資料21『人身連骨眞形図』(1741)

大分県中津市に仮住まいしていました。蘭学関係の古文書が数多く置かれているので「中身はどのようなものか」と気になり、興味本位で調べています。



今回は眼科医の根来東叔が描いた、日本初の人骨図『人身連骨眞形図』(1741) を紹介いたします。


目次

大分県中津市ってどこ?

福岡県と大分県の県境です。蘭学の街として栄え、歴史の教科書に掲載される『解体新書』をみることができる町です。
今は「中津からあげ」が有名です。

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(画像引用元:中津市へのアクセス | 大分県中津市

1741(寛保1)年 日本で最初の人骨図 『人身連骨眞形図 』

日本で最初の人骨図です。
根来東叔(ねごろとうしゅく)が1732年に火刑にされた2人の男性の遺骨を研究し、写生しました。埋葬されることなく、長い年月雨風にさらされていた遺骨なので状態は悪かったと思われます。



この写真では解りにくいのですが、よくよく見ると骨の数や、骨の名前等、細かく描かれています。

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村上医家資料館展示品『人身連骨眞形図之右』(1741)
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村上医家資料館展示品『人身連骨眞形図之左』(1741)

非常に失礼な個人的感想ですが、医学への情熱や知識が優れているのと、絵が上手なのは別物なのだな...と思ってしまいました。
怖くない人骨図....ゆる可愛いのでお土産用のクリアファイルのデザインに良いかもしれません。

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引用元:ドラえもん 25巻「カンヅメカンでまんがを」



参考用に背骨の図を貼っておきます。頚椎7個・胸椎12個・腰椎5個です。比較してみると楽しいかもしれません。
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書かれている内容

掛け軸の上部に文章が書かれています。
背骨や肋骨の数を数えたり、それぞれの骨の特徴を描写され、実証的な考え方をしていたようです。

掛け軸の下にキャプションがありましたので、書き起こしました。

『人身連骨※①真形図之右』
頭骨、古来伝ウル所ノ図ハ形相同ジ
眼竅(がんきょう[めのあな])二穴、鼻竅一穴ハ共二口肉ノ上腭(顎)二一大穴有リ、此ノ穴ハ眼鼻ノ三穴ト相貫ク、即チ懸擁ノ懸ル所處ナリ。
耳竅(じきょう[みみのあな])、脳骨ノ中ニ通ズ。独リ口内ニ通セズ。
上歯、顴(ほおぼね)ニ接ス。下歯ハ頦骨ニ接ス。前歯ハ独根(ひとつのね)。槽牙ハ岐根(ふたまたにわかれたね)。齦肉(はぐきのにく)ハ 已に去セシモ、牙歯ハ※②自若タリ

頬車(あごぼね)、顴骨頦骨ノ耳竅ニ接スルノ前ハ、即チ是レ頬車ナリ。頗(すこぶ)る諸獸ノ頬車ニ似タリ。手ヲ以テ之ヲ動カセバ即チ能ク※③叩歯ス[はがみ]

脊骨、古来 脊骨図ヲ著(あらわ)スヤ、状ハ弓形ノ如クシテ背ニ露(あらわ)ル。此乃チ背骨ニシテ脊骨ニ非ズ。脊骨ハ内實(み)チテ形真(まっす)グナリ。柱ノ如クニシテ腹背ノ半(なかば)ニ直立ス。猶(な)オ屋(おく)ニ大中ノ柱有ルガ如シ。又魚ノ背骨ニ 匕人(似)タリ。身ノ中間ニ在リ。凡ソ二十七節、節モ亦タ魚ノ脊骨及ビ野猪ノ脊骨ニ似テ、節ノ間ニ空(すきま)有アリ、凹字ノ如シ。微脂(すこしのあぶら)含ム。上ハ頭骨ニ接シ、下ハ腰監骨ニ接ス。上ハ細ク下ハ巨(ふと)シ、廿二三椎(つい)ニ至ル。而シテ之ヲ量(はか)レバ、※④両食指ヲ圍(ふたつのひとさしゆび)ムノ大弱(蒻)ノ如シ。十三椎(つい)ノ下ノ四椎ハ漸ク細ク漸ク偏(ひらた)ク、形ハ竹箆(たけべら)ノ如ク、腰監骨ニ随イテ斜ニ退キテ穀道ノ後ニ至リテ ク偏ク、盡(つ)ク。尾骶骨ト稱スルモノハ、此ノ骨ノ尖(さき)ナリ。

露背骨、古来、背骨ノ名無シ。即チ背上ノ※⑤督脉(脈)ノ露(あらわ)レシ骨ナリ。
余之二名ヅケテ露背骨ト曰(い)ウ、凡十三。魚ノ背骨ニ似テ、脊骨ヲ隠蔽ス。根ハ岐(わか)レテ琴厂烏(きんう)ノ如シ。脊骨及ビ左右ノ肋骨ニ接シ、其ノ尖(さき)ハ後ニ向ツテ斜ニ垂ル。一ハ二ヲ掩イ、※⑥次(じ)ヲ匕人(似)テ相重ル。初椎ヨリ二十三椎ニ至リ、腰監骨二重ナリ續ク。其ノ岐(わか)レシ間ハ則チ穴ノ如ク、上下相貫ク、又裏面ノ脊骨節ノ側ニ通ズ。内ニ脂膏ヲ含ミ、節ノ側ニ湧出ス。

肋骨 二十三、左右共ニ四十六。脊骨ノ初椎ヨリ二十三椎ニ至ルマデ、節間ノ両側ニ附着シテ下椎ニ接セズ。節及ビ下椎ニ当リテ缺穴有リ、腹背相貫ク、亦タ脂膏ヲ出ダシ、椎毎ニ此ノ如シ、其ノ脇ノ肋八十二、稍(やや)長シ。後ヲ曲ゲテ前ニ向ウ。脇ニ至リテ斜ニ垂ル。胸前ノ諸骨ハ、狼犬食イ去リ、之ヲ見ザルナリ。但ダ頂(うなじ)ノ間五骨ハ、短微ニシテ垂ル。長キ肋ノ下ノ五骨ハ短クシテ曲ラザルノミ。

腰監骨、一大片骨ニシテ廿三節ヨリ廿七節ニ至ル。脊骨ヲ揜附(おおいつつ)ミテ、頗(すこぶ)ル亀甲ノ脊骨ニ附着スルニ似タリ。又形ハ物ヲ抱クニ似タリ。上ハ甚ダ厚ク、下ハ漸ク薄シ。狭キ背ノ中行(なかならび)ニ長キ陥(くぼみ)有リ、陥ノ中ニ四穴有リ。左右共ニ八穴。上ノ穴ハ濶(ひろ)ク、下ノ穴ハ陝シ、背ト腹ト相貫キ、即チ八※⑦窌(窖かう)穴アリ。

◎正面図
・眼竅 ・鼻竅 ・耳竅 ・頬車 ・頦骨 ・頦骨ハニ椎ヲ隠蔽。
・脊骨 ・顴骨 ・短肋五、左右共ニ十 ・大椎
・長肋十二、左右共ニ二十四。 ・腰監骨 ・捷骨 ・八窌(窖)穴 ・穴 ・穴 ・尾 
・髀骨 ・膝 ・外脛骨 ・内脛骨 ・骭骨 ・外踝 ・跟骨 ・跗骨

◎背面図
・短肋 ・露背骨 ・長肋 ・短 ・長陥 ・八窌(窖)穴 ・環跳




『人身連骨真形図之左』
交骨、左右、腰監骨ニ接ス。中行ニ(なかのならびに)二(ふたつ)ノ小サキ陥(くぼみ)有リテ左右ニ相対(あいたい)ス。又稍(またすこ)シク相去リテ二大穴有リ。

股骨、上ハ腰監骨ニ接シ、下ハ脛骨ニ接ス。大キサ脛骨ニ倍ス。

※⑧膝膕 (しつかく)、股骨・脛骨ノ相接スルノ處、指シテ膝膕ト為ス。古来、膝蓋骨ノ説有リ。今之ヲ見ルニ有ルコト無シ。果シテ有リヤ否ヤヲ知ラズ。
余竊 (われひそ)カニ意(おも)エラク、股骨ノ起頭ハ甚ダ大キクシテ膝蓋ノ形有リ。困リテ以テ別骨有リト為スカ。脾樞踝骨ハ類亦タ皆ナ骨端ノ起頭ナリ。

脛骨、二骨内ト外ト二並ビ立チ而シテ内ノ脛骨ハ大ニシテ。外ノ脛骨ハ小ナリ、上ハ股骨ニ接シ、下ハ跟骨ニ接ス。内ト外トアリ

踝骨、即チ内外脛骨、ノ起頭ナリ、絶骨ハ則チ外脛骨ノ外稜ナリ。
跟骨、後圓前方。上ハ脛骨ニ接シ、前ハ跗骨ニ接ス。
跗骨、指骨ノ形有リ、而シテ指(骨)ノ分ノ如カラズ。後ハ跟骨ニ接シ、前ハ指骨ニ接ス。跗骨ノ間ニ、断紋有リ。即チ、衝陽陥谷之間ナリ。
指骨 落去シテ、有ルコト無シ。

※⑨享保壬子ノ歳、※10烙刑ニ處(しょ)セラルル者二リ、月餘(ひとつきあまり)、遺骸ヲ瘞(うず)メラレズ、余偶(われたま)タマ之ヲ視ルニ、肌内ハ腐化シ、臟府(腑)ハ爛脱(ただれぬけお)チタリ。両手肩骨モ亦タ随イ落ツ。然レドモ大骨ハ連続シ、卓爾(たくじ)トシテ生ケルガ如シ。
手ヲ以テ之ヲ操(と)レバ、則チ頬車(あごぼね)ハ闓闔(ひらきと)ジ、脊骨ハ仰俯(うえしたをむ)キ、膝膕ハ 屈伸(のびちぢみ)シ、及ビ諸節ノ接続ハ、猶(な)オ未ダ機樞ヲ失ワザルナリ。而シテ二人相同ジク、符節ヲ合スルガゴトシ。人身ノ或ハ起座シ、或ハ堰臥シ、或ハ正立シ、或ハ直行シ、仰ゲバ則チ胸肋張リ、俯(うつむ)ケバ則チ背骨出テ、歯ノ齧(か)ミテ堅キニ耐エ、肩ノ擔(にな)イテ遠キヲ致シ、腹皮ノ舒縮(のびちぢ)ミシテ 、飢飽ニ随ウノ類ノゴ若(ごと)キニ至リテハ、亦タ皆ナ此ノ機樞ニ在リ。而シテ其ノ神竒巧妙ハ造化ノ自然ト謂ウベキモノナリ。余(われ)一タビ之ヲ見、頓(とみ)ニ蒙開ケ塞(ふさがり)ノ決(きりひら)カルルヲ覚エ、胸次豁(かつ)然タリ、誠ニ醫門ノ一大法縄ト作(な)スベキナリ。古来ノ名家、未ダ真骨ヲ見ズ。妄リニ露背骨ヲ綛(認)メテ、脊椎骨ト為ス。或ハ頂(あたま)ノ間、腰ノ上ニ短肋有ルヲ知ラズ。而シテ之ガ図ヲ為シ、之ガ説ヲ為シ、誤リヲ千歳ニ伝ウ。千歳ノ人モ亦タ茫乎(ぼうこ)トシテ遂ニ真ヲ見ズ。予幸(われさいわい)ニ之ヲ見テ、斯(こ)ノ図有ラザルニ忍ビズ、困リテ其ノ見ル所ヲ写シテ、以テ一図ト為ス。但ダ機樞ニ至リテハ、則チ盡カノ及バザル所ナリ。庶(こいねが)ワクバ人ヲシテ一タビ図ヲ開キテ、初メテ注目セシメンコトヲ。古(いにしえ)ヲ信ジテ今ヲ疑ウコトヲ尚(たっと)ブ者ハ則チ余(われ)ノ得テ強イザル所ナリ。

※11享保改元秋九月之望(じゅうごにち)※12南京ノ醫工、根来東叔(ねごろとうしゅく) 在原行忠
※13洛陽ノ操神堂ニ書ス。


◎測身図
・耳竅 ・眼竅 ・鼻竅 ・頬車 ・顴骨 ・背骨 ・短肋 ・頦骨
・露背骨、脊骨ヲ隠蔽ス。古来ノ所謂(いわゆる)大椎骨ナリ。・長肋短肋 ・腰監骨
・尾骶骨 ・内踝 ・膝 ・膕 ・絶骨
◎上腭(顎)大穴図・大穴
◎肋骨ノ脊骨ニ接スル図 ・脊骨折口図 ・脊骨 ・背骨 ◎脊骨折口図 ・脊骨 ・背骨
◎背骨側穴図 ・背骨 ・穴 ・穴 ・陥 ・脊骨 
 
◎背骨揜附(えんぶ)明分図 ・穴 ・背骨 ・穴 ・背骨ノ岐(わか)レシ間ハ即チ穴ナリ。
◎脊骨ノ斜(ななめ)退ク図 ・脊骨 ・骶骨
◎腰監骨内面図 ・大椎ヲ以テ初椎ト為セバ則チ十八椎ニ附着シ、初椎ヲ以テ初椎ト為セバ則チ廿三椎ニ附着ス。・尾骶骨


 ・頦骨ハニ椎ヲ隠蔽。
  ・短肋五、左右共ニ十 ・大椎
・長肋十二、左右共ニ二十四。 ・腰監骨 ・捷骨 ・八窌(窖)穴 ・穴 ・穴 ・尾 
・髀骨 ・膝 ・外脛骨 ・内脛骨 ・骭骨 ・外踝 ・跟骨 ・跗骨



①真形図→道教の古典『漢武帝内伝』などに「五岳真形図」
②自若→そのまま残っている、
③叩歯→道教の古典『真誥』などに見える語、歯をかみあわせる道教の儀式。ここは、歯を噛み合わせるの意。
④両食指ヲ圍(ふたつのひとさしゆび)ムノ大弱(蒻)ノ如シ→両手の人差し指で作った輪の大きさコンニャクの球根。大蒻は、大きな蒟蒻の球根。
⑤督脉(脈)→『素問』骨空論「督脈起於少腹以下骨中央」(人体の中央に在って上下に貫徹する脈)
⑥次(じ)ヲ匕人(似)テ→つぎつぎに
⑦窌→『集韻』に【「窌(カウ)」は『説文』ノ「窖」ナリ。】
⑧膝膕 (しつかく)→ひざとひかがみ
享保壬子ノ歳→享保十七年(一七三二)
10烙刑→火あぶりの刑
11享保改元享保元年(一七四一)
12南京→奈良
3洛陽→京都

(平成十一年九月十八日 福永光司 訳注)

※テロップを書き出しましたが、読みやすさ等をかねてルビを省略し、個人的に読めなかった字にフリガナふっています。

漢字辞典オンライン手書き漢字認識を使って書き出していましたが、どうしても見つからない漢字は省いています。旧漢字難しいですね....。


解読の詳細は川島眞人著『中津藩蘭学の光芒』に載せられているようです。



筆者の根来東叔(1698〜1755)

根来東叔(ねごろとうしゅく)は江戸時代中期の医師で、京都の人です。
根来家は和歌山県那賀群岩出町根来寺の僧侶で、医師の家です。唐に渡った空海が伝授したといわれている眼科を専門として代々医業を営んでいました。
眼科が専門なので、『人身連骨眞形図』の他、著書『眼目暁解』 に 当時の白内障手術(墜下法,撥下法)の経験から想像した眼球解剖図を掲げています。白内障が眼球中部の病気であることを、日本で最初に述べています。





根来東叔の息子の根来東麟は、父の死の約十年後の1765(明和2)年に中津藩医になり、同年10月豊前中津へ移住しました*1。このとき仕えていたお殿様は、中津藩奥平家 第三代藩主 奥平昌鹿です。この時のお給与ですが、禄250石と薬種料4両を給されたそうです。



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根来家屋敷は中津の古地図で確認できそうです。


人体解剖の時代背景

ざっくりと当時の時代背景を説明していきます。

解剖御法度の時代

国内では、人体解剖が御法度の時代が長く続いていました。

当時、日本では漢方医学が主流でしたが、人間の内臓は五臓六腑(ごぞうろっぷ)、すなわち肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓の五臓と、胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(さんしょう)(リンパ管と思われる)からなる六腑で構成されるとされていました。

張景岳「類経図翼」
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(図:Kyushu University, Medical Library Collections

こちらの図、見たままの内臓ではなく、 内臓それぞれの機能・働きを描いているようです。従って、全然違う解剖図になってしまってます。

そんな時代に、根来東叔が『人身連骨眞形図』(1741) を描いたようです。

1754(宝暦4)年 最初の人体解剖:山脇東洋

1754(宝暦4)年、山脇東洋が日本で最初の人体解剖を行いました。

それまで人体解剖は御法度であったことから、まずは人体に類似した点が多いとされていたカワウソの解剖をおこなったようです。その後、死罪となった囚人の解剖が許可され、刑場にて人体解剖を観察し、1759(宝暦9)年には解剖学書「蔵志(ぞうし)」を発刊しました。

その後、周りから批判されながらも、親子3代に渡って解剖を続けていたようです。

山脇東洋「蔵志(ぞうし)」
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(画像引用元:蔵志. 乾,坤之巻 / 山脇尚徳 著 ; [山脇]侃 校

『人身連骨眞形図』(1741) から13年後には、なんとか解剖ができたようです。

1774(明和8)年 解体新書の発刊

山脇東洋の影響を受け、江戸で前野良沢杉田玄白らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手したようです。

山脇東洋の解剖から17年後の、1771(明和8)年、蘭方医の杉田玄白前野良沢中川淳庵らは、小塚原の刑場で罪人の解剖を見学した後、中津藩中屋敷内「ターヘル・アナトミア」の翻訳を行い、(1774安永3)年「解体新書」を刊行しました。
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1819(文政2)年九州で初めての解剖 村上玄水

村上玄水 天明元年(1781)〜天保14年(1843)
蘭方医。中津藩医。漢学・軍学蘭学を学び、1819(文政2)年、近在の医師59名の見守る中、長浜刑場で九州最初の人体解剖を行いました。解剖の記録「解臓記」を遺しています。*2こちらの資料は、村上医家資料館に展示されています。



ざっと『人身連骨眞形図』(1741) 〜九州で初めての解剖(1819)まで紹介しました。


1845(弘化1)年頃 『人身連骨眞形図 』から約100年後

『人身連骨眞形図』が描かれてからおよそ100年後、歌川国芳(1798年 - 1861年)によって『相馬の古内裏』1845(弘化1)年が描かれています。西洋の解剖学の書物を研究した成果と言われているようです。*3
『解体新書』が出てたお陰か、この頃には西洋の解剖学の書物を見れたんですね。

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『相馬の古内裏』(1845-46年) 山口県立萩美術館・浦上記念館、悳俊彦等所蔵 


こうして見てみると『人身連骨眞形図』は、先駆的なことだったことがわかります。

展示場所

村上医家資料館に展示されています。

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村上医家資料館・大江医家資料館 共通パンフレット

まとめ

江戸時代の医師たちは、未知のものへの好奇心と挑戦心があったようです。
当時解剖が御法度だった時代、日本で最初の人骨図『人身連骨眞形図』は、根来東叔(ねごろとうしゅく)が火刑にされた2人の男性の遺骨を研究し、写生したものです。
それから13年後、山脇東洋が日本で最初の人体解剖を行い、解剖学書「蔵志(ぞうし)」を発刊しました。それは、後の解体新書の発刊へとつながっていきます。
その後、国内の美術でも解剖学を研究した絵も生まれたので面白いですね。

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