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何か面白いことないかな

慶應義塾大学医学部100年と前史

今年は慶應義塾大学の医学部が100周年のようです。
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2018年3月末まで、新病連建設事業として寄付金を募っています。
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慶應義塾大学医学部の初代病院長が北里柴三郎ですが、北里柴三郎福澤諭吉は仲が良かったようです。
暫くの間、暇つぶしに福沢諭吉の故郷、大分県中津市の記事を書いていましたので、今回はその関連として慶應義塾大学医学部について紹介してみます。


目次

1855年(安政2) 福澤諭吉緒方洪庵適塾に入門

福澤諭吉は砲術の勉強のため、蘭学を教えていた大阪の医師の緒方洪庵適塾)で勉強していました。このことが影響を与えたのでしょうか、慶應医学所を作りました。
適塾時代、福澤は生理学、医学、物理学、化学等の原書を読んでいたようですが、血を見るのが苦手だったようで、解剖等は手を出さなかったようです。

その後に、1858(安政5)年 福澤諭吉、江戸築地鉄砲州に蘭学塾を創始し、後の1868(慶応4年/明治元)年に芝新銭座に移転し、慶應義塾と改称し、塾内に病室を設置しました。これが校医の起源のようです。この頃、福澤が学んでいた適塾が閉鎖したようです。

慶應義塾医学所について

慶應義塾医学所(1873年明治6年) - 1880年明治13年))が設立されたものの、西南戦争による入学者の少なさによる経営危機で7年で閉まったようです。

1873(明治6)年 慶應義塾医学所 開設

三田山上に「慶應義塾医学所」設立しました。
松山棟庵を校長とする医学所は、英米医学を教授し、7年の間に約300人の医師を輩出しました。この医学所が創設された経緯は、福澤のふとした発意から生まれたようです。

設立経緯:英語で医学を

生徒の前田政四郎が「医者になるにはどうしてもドイツ語を学ばねばならないけれど、塾にはその便がないので他の学校に移りたい」と福澤に述べました。
福澤は「医学を学ぶのに何もドイツ語でなければならない理由はあるまい、英語でも十分修得が可能な筈で、慶應でも、英語で医学の修得ができる学校の設置をこの際考えてみたい」ということで、さっそく三田の福澤邸内に住んでいた門下の医師松山棟庵に相談し、その結果が医学所の誕生となりました。

慶應義塾医学所のカリキュラム

明治6年10月のことで教授スタッフには松山を校長に、新宮涼園、杉田武らが当たり、武の父杉田玄端が付属診療所の主任となりました。
開校時の学生募集広告によると、予科2期、本科5期に分けられ、本科では主にハルツホルン(H.Hartshorne)の医学書をテキストに用いたようです。当時、ほとんどの医学所がドイツ医学の修得を目指したのに対して、慶應医学所はイギリス医学を志向していたようです。

明治7年2月23日付の福沢書翰には「目今医学生30名に近し」とあり、東京府に提出した届書には、10年4月から6月には在学生86名とあります*1

東京日日新聞』(第五五一号)に掲載された、開校当時の学生募集広告

慶應義塾医学所
此度社中申合せ本塾の傍に医掌所を設けたり、有志の子女は来り学ぶべし。
其学科目左の如し。

一.予科
窮理(クワツケソボス、ガノツト)
舎密書(ウエルス、ユーマン)
一.本科
解剖書(ハルツホルン、グレイ)
人身窮理(ハルツホルン、ダルトン
原病書(ハルツホルン)
薬性書(ハルツホルン、ネルゲン)
内科書(ハルツホルン、タソネル)
外科書(ハルツホルン、ドロィツ)

右よ科の分は先づ(ハルツホルン)の書を以て其業を卒らしめ、次に此掌科を逐て諸家の書頬を研究せしむ。
科の書を備へたり。春秋余りある人は益々博問を期すぺし。
入社入塾等の規則は総て本塾に同じ。
授乗一課(一時間に付)月謝七十五銭。但し二課を学ぶ者は一円五十銭。
掘籍並に骨格等は望に任せて之を貸すべし。

東京三田二丁目慶應義塾

(引用元:慶應義塾医学所 - Wikipedia

1878年、三田に設置された医学所の卒業証明書
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画像引用元:慶應義塾豆百科:[慶應義塾]

1880年(明治13) 慶應義塾医学所 廃校

西南戦争の影響で塾生数は激減、福澤は廃塾を決意する程の経営危機に陥りました。
門下生らの力で「慶應義塾維持法案」を発表し社中協力して慶應義塾の廃塾は乗り越えましたが、慶應義塾医学所は廃校してしまいました*2


慶應義塾維持法案...寄付制度のこと。私学が卒業生及び世の篤志家に訴えて改善充実の寄付を求めた最初の試み*3
※社中協力...社中は、学生・卒業生・教職員など、すべての義塾関係者の総称*4

キーパーソン 北里柴三郎

北里柴三郎は日本の医学者・細菌学者です。ペスト菌を発見したり、破傷風の治療法を開発したりする等、感染症医学の発展に貢献しました。

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明治村 北里研究所内パネル

福澤諭吉に伝染病研究所設立を支援してもらった恩から、後に慶應義塾大学部医学科を開設し、初代医学部長として尽力しました。

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明治村 北里研究所内パネル

伝染病研究所設立〜慶應義塾大学医学部の設立まで

北里柴三郎は、福澤諭吉慶應義塾大学医学部に関わりが深いので追って行きましょう。

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明治村 北里研究所内パネル

1892年(明治25)福沢諭吉、伝染病研究所設立を支援する

福沢諭吉は大阪の適塾時代の友人(長与専斎)に相談されたことがきっかけで、北里柴三郎と知り合いました。福沢諭吉が北里を見込んで、土地は福沢の所有で研究資材は森村市左衛門の寄付により、日本で最初の伝染病研究所ができました。



※森村市左衛門....食器のノリタケTOTO日本ガイシ等の設立者

下記パネルで、赤い四角で囲っている部分です。
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話は少し逸れますが、福澤諭吉は伝染病研究所を提供し、それ以来、常に北里を擁護する後見人のような役割を果たしていたようです。
1894年、中国南部で始まり香港で大流行していたところ、日本から北里柴三郎含むペスト調査団が派遣されました。「調査団にペストが発生」のニュースを福澤を聞くと、馬を駆って内務省その他の関係筋を回り、北里を召還するように要求し、北里に「スグカヘレ」の電報を出しました。安否を気遣う親のようだったようです。
一方、北里はすぐ日本へ帰ろうという気など無く、すぐにペスト菌の性質を調べ、ペストのまん延を食い止めることが優先されるべきだと考えていたようです*5

その後ペスト菌を発見し、香港での経験を日本のペスト対策を生かしたお陰で、日本でのペストの大流行はありませんでした。

1901年(明治34) 福澤諭吉逝去

1901年2月3日、福澤諭吉が亡くなりました。

1914年(大正3) 伝研騒動

私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、初代所長北里柴三郎は移管に反対して所長を辞任しました。この時、志賀潔赤痢菌の発見者、医学者・細菌学者)を始め研究所の職員全員が一斉に辞表を提出しました。

詳細は割愛しますが、権威やら派閥争いやら、いろいろあったようです。。


1914年(大正3) 北里研究所設立

その後、国立伝染病研究所の文部省移管決定と同時に、所員の総辞職となり、新たに私立の北里研究所(芝区、現港区白金)が創立されました。

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北里研究所 旧本館は今現在、明治村に一部移設され見ることができます。

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明治村 北里研究所本館


1917年(大正6) 北里柴三郎による慶應義塾大学医学科開設

北里柴三郎は、福沢諭吉の恩義に報いるため慶應義塾大学医学部を創設し、医学部長として、また顧問として終生その発展に尽力したようです。


赤い四角で囲っている部分です。
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1931年(昭和6)北里柴三郎 死去

1931年(昭和6) 6月13日 北里柴三郎が亡くなりました。

1977年(昭和52)福沢諭吉 ミイラ化発見

最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見されたようです。
外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定されたようです。学術解剖や遺体保存の声もありましたが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされたそうです*6


2017年(平成29) 慶應義塾大学医学部100周年

1917年の慶應義塾大学医学科から、1919年には大学令により医学部となりました。
今年は記念すべき100周年です。

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寄付のお願い

そういえば、今年は東京大学医科学研究所も創立125周年改組50周年記念を行っているようです。


まとめ

福沢諭吉蘭学を教えていた大阪の医師の緒方洪庵適塾)で勉強していました。このことが影響を与えたのでしょうか、慶應医学所を作りましたが7年で廃校になってしまいました。
その後、伝染病研究所設立の際に北里柴三郎を支援したことから、後々に恩義を北里柴三郎慶應義塾医学部の創設し、初代学部長としてに尽力しました。今年は記念すべき100周年です。2018年3月末まで、新病連建設事業として寄付金を募っていますので、国内の医療発展に貢献したい方は、ご協力お願いします。